不妊治療~娘を授かるまでの記録~①プロローグ
こんにちは、ももです。
いよいよ明日から、二年ぶりの不妊治療を再開します。
二人目妊活、いよいよ本格始動です。
そこで今回は、私が娘を授かるまでに受けた不妊治療について、自分の振り返りを兼ねて、ブログにまとめることにしました。
最初の受診は9年前なので、記憶も曖昧ですが、覚えている範囲でまとめました。
長くなるので、何回かに分けて更新します。
本日は、不妊治療に入るまでのプロローグをまとめました。
①プロローグ
私が結婚したのは24歳、2006年の11月です。
実母が末期癌であることが分かり、慌てて当時付き合っていた夫と入籍しました。
なんとか母親に孫を抱かせたいと焦っていた私は、2007年の11月に、近所のA産婦人科に不妊の検査に行くことにしました。
A産婦人科は、体外受精にも対応する不妊治療に力を入れている病院です。
とても人気が高く、待ち時間も長いです。
そこで私は、血液検査や卵管造影検査など、一通りの不妊症の検査を受けました。
卵管造影検査は激しい痛みを伴い、気を失いそうになりました。
結果は、右の卵管の閉塞の疑いと、乳腺刺激ホルモンの値が高いことが分かりました。
しかし、当時25歳で結婚一年の私に、院長はこういいました。
「検査でこれだけ分かったけど、これからどうするの?
君はまだ25歳でしょ?
まだ結婚一年だし、こんなんで不妊症とは言わないよ。
卵管の閉塞の疑いはあるけど、入院して腹腔鏡で検査までする気はないでしょ?
仕事一週間休めるの?
どうせ無理でしょ?
君みたいな人に時間を裂く暇はないんだよね。
まだ自然妊娠の可能性は十分あるし、あと一年は様子見てから来てくれるかな。」
一方的に捲し立てられる辛辣な言葉に衝撃を受け、そして深く傷つきました。
受診するまでもすごく悩んで、それでも勇気を出して受診して、痛い検査も必死で耐えたのに、何これ?
高い検査費用は何だったの?
もうショックすぎて言葉も失い、反論できずにそのまま診察室を出ました。
この一件により、不妊治療に恐怖心を抱いた私。
治療を受ける選択すら与えられなかったことに、絶望しました。
しかしその数ヵ月後、私は自然妊娠しました。
もうA産婦人科には二度と行きたくなかったので、自宅からは一時間程離れたB産婦人科に通うことにしました。
こちらは無痛分娩で有名で人気の病院です。
職場の先輩もここでたくさん出産されており、安心でした。
やはり待ち時間はかなり長いです。
先生は若く、話しやすくて気さくな感じ。
妊婦検診を楽しみにしていました。
しかし18週頃から下腹部痛が出現し、二回受診するも異常はないと言われました。
でも妊娠19週で緊急入院になり、翌朝に破水し、死産となりました。
病院の対応に疑問も多く、しだいに不信感を抱いた私。
本当に死産は避けられなかったのか?
もっと早く対応をとることはできなかったのか?
でも心も体もボロボロの状態では、何も言えませんでした。
そこから3年間、私は自然妊娠を望んで自己流で妊活を続けました。
産婦人科に対する恐怖心や不信感が、私を不妊治療から遠ざけたのです。
でも結果がでないまま、月日だけが流れます。
25歳だった私は、いつのまにか29歳になっていました。
どうしよう…。
このままではマズイ。
でも病院に行くのは怖い。
そんなとき、生理でもないのに不正出血が…。
不安になり、急遽B産婦人科に行きました。
不信感はあるものの、死産の経過を分かってくれているという理由で、B産婦人科を選びました。
新しい病院に行って、今までの経過を自分で説明できる自信はありませんでした。
その結果、不正出血はホルモンの乱れによるもので、大したことはありませんでした。
でも、前回の妊娠から三年が経過しており、妊娠を望んでいるのに出来てないのなら、不妊治療を始めるべきだと勧められました。
このタイミングで受診したのも、不妊治療を始めるための運命だったのかな?と感じた私は、B産婦人科で不妊治療を始めることにしました。
つづく。
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